勤務先用に書いたものの転載です。
そんなわけで本日も御開帳開催中の善光寺さんへのお参りのついでにハックできるIngressポータルのご紹介いってみましょう。いったいいつになったら本堂に辿り着くのか?まあそれだけポータルというか見どころがたくさんあるということではあるのですけどね。
先日の仁王門につづいて善光寺参道2番めのチェックポイント、「駒帰りの橋」です。
なんの変哲もない小さな川にかかった小さな橋ですけれども、実はコイツはとんでもない因縁話をもっています。概ねは先日の「たたる善光寺」の回でご紹介しましたが、改めまして…いやネタがないので同じ話題をというわけではなくてですね(汗)、まあシリーズですので、改めてとりあげさせていただきます。
前回の釈迦堂のお話でも出ていましたが、善光寺は戦乱や火災によって歴史上何度か建てなおされているようでして、鎌倉幕府成立後には源頼朝公の命により再建されています。で、建久8年 (西暦1197年)、修繕完了した善光寺に頼朝公が参拝に来たんだそうです。
その際に、まあお偉い将軍サマですから、馬に乗ってやってきたんですな。善光寺境内にも馬に乗って入ってきた。ところが、どういうわけかこの橋の上にちょうど馬の蹄がズボっと入ってしまうような穴があいておりまして、それに頼朝公の馬の足がドスっと入ってしまいまして、多くの人びとが見ている中、頼朝公は無様に馬ごとひっくりかえってしまいます。
これは馬に乗ったまま参拝する無礼を善光寺が戒めたのだろうということで、さすがの頼朝公もこの先は下馬して歩いて行ったというおはなし。
「駒返り」というのは、駒、つまり馬がひっくり返った橋ということです。
こちらがその穴ですな。また見事にとってつけたように馬の足だけツッコミそうな穴があけたように開いておりますが。
も ちろんこんな橋の端っこをとおったわけではありませんで、そういう言い伝えのあるこの穴の部分だけ残して作りなおしたということでしょう。前回の釈迦堂の ところに元禄13年 (西暦1700年) まで本堂があったというおはなしですから、そもそもこの橋のあった場所も昔はここではなかったのでしょうね。
実は頼朝公が善光寺にお参りしたというのは、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」に記録がない、というか、正確にはその頃の記録が欠落しているのだそうです。
しかし、他にも頼朝公のおハナシが残っておりまして、善光寺の表参道である長野中央通りの、ちょうど長野駅から善光寺までのちょうど中間ぐらいに十念寺というお寺があるのですが、ここは頼朝公が開かれたお寺なのだそうで。
こちらにももちろん因縁話がのこっておりまして、この駒返りの橋でずっこける前、善光寺に向かってちょうど十念寺のあたりにさしかかると、あたりに紫の雲がたちこめまして、一光三尊の善光寺式阿弥陀如来があらわれまして、頼朝公に直接十遍のお念仏を授けたのだとか。
ここまで歓迎されてんのに後で馬から落とされるというのも、なんだか「持ち上げて落とす」みたいなヒドいハナシではります。善光寺さん、結構ヒトが悪いようで。
先日ご紹介しました、山梨の甲斐善光寺にあるこちらの眼のない頼朝公の像ですが。
別 に当時わざわざこんな風に目玉をいれない作風があったわけでもなく、また、この像はそもそも信州善光寺にあったものが甲斐善光寺に移されたのだというハナ シもあるそうです。そんなわけでして、頼朝公は善光寺に呪われたんじゃないか、だから吾妻鏡からカットされたんじゃないかなんていう説もあったります。
頼朝公、最後はやはり別のところで落馬したのが原因で命を落とされたなんてえお話もありまして、ああ、やっぱり、なんておっしゃる向きもあるようです。
実際には落馬死亡説を元に、後世になってから善光寺落馬事件のお話がつくられたのかもしれず、真相はよくわかりませんけどもね。「おはなし」はその事象だけでなく、関連しそうなことをいろいろと妄想するのも楽しいものであります。
さて、次回は本堂にたどり着くのでしょうか?御開帳の善光寺参りはまだまだ続きますよん。
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