勤務先用に書いたものの一部修正転載です。
さて、長々おはなししてきてしまいましたが、信州の山姥のお話しの最後です。
八面大王とはどういう鬼だったのか?
最初に申し上げましたとおり、鬼だの妖怪だのと言ったハナシは本来はオカルトではないわけでして、鬼なんてものは実際にはいないわけです。
「あいつは鬼のようなヤツだ」というようなものですし、最後は朝廷からの刺客に倒されたわけですから、なんらかの悪事を働いた者のことだったのではないかと考えられます。
大王わさび農場と同じく安曇野市にある穂高神社の縁起によると、義死鬼という東夷 (朝廷に従っていなかった他の勢力) を田村利仁 (坂上田村麻呂の別名) が討伐したということなのだそうで、なるほど、前回までのお話とだいたいおんなしですね。
しかし、もう1つのお話が伝わっています。
松本あたりの古い書物である仁科濫觴記 (にしならんしょうき) にはまた別のお話しが載っているのだそうで、それによると8人の「八面鬼士大王」を首領とした「鼠 (ねずみ)」という盗賊団を、田村守宮というひとが討伐したのだそうです。
あれ?盗賊だったんだ。しかも田村守宮って誰?どうやら現在の松本市のあたりの豪族仁科氏の家臣だったそうで、等々力玄蕃亮という別名もあるらしいです。なんでこういくつも名前があるんでしょうかこの人たちは。
捕まった盗賊団は、長老1人は死罪とするものの、他の者は耳を削いでこの地から追放しようということにしたのだそうです。しかし、被害者たちの嘆願により、長老の死罪はやめて8人の首領の両耳を削ぎ、手下達は片耳を削ぐということですまそうということになったそうです。
おやおや、ちょっと許されたのですかね?
ところが、被害者達の嘆願とは、自分たちの手で恨みを晴らしたいということだったそうで、役人が耳削ぎの刑を執行しはじめると、村人が我も我もと集まって盗賊達の耳を削ぎ始めたのだそうです。8人の首領はそれだけでなく、村人たちに山の上に連行され、天罰とばかりに大穴に突っ込まれて石積みにされて殺された、ということが仁科濫觴記に書かれているのだそうです。
……。いやはやなんともはや。どちらが真実なのかワタシにはよくわかりませんが、こちらのお話しはかなり厳しいというか、残酷なお話しではあります。
ただ、もしそれが本当だったとして、のちの世では英雄的にお祭りされているというは、なかなか感慨深いものがありますよね。
かつて問題のあった者を自分たちで排除してしまったうしろめたさを、その存在をお祭りすることで解消し、供養しつづけているのが、このお話にかぎらず、日本各地に伝わるお祭りや妖怪の一部だといこともあるのかもしれません。
たとえば東京丸の内、オフィス街の真っ只中に祭られている平将門で すけども、大変なたたり神だといわれて現在も手厚くまつられておりますが、これも当時体制側から都合が悪かったために処刑されてしまった将門を、それでも あいつは大したヤツだったのだけどな、と惜しんだり後ろめたくおもったりする、生きている側の気持ちが「たたり」ではないかと思うわけです。たたりとは死 んだものがたたるのではなく、生きている者が感じるものなのでしょう。
さて、源頼光と坂田公時らが討伐した中には「酒呑童子」という鬼もいたというのは何度か書きました。「童子」とは子どものことですよね。酒呑童子とはなにか討伐しなければならないような都合の悪い存在だったとしても、ひょっとして子どもだったのかもしれません。
酒呑童子も今ではお祭りされる存在ですが、悪いことをしてしまった子どもを厳しく罰してしまったことに対する「ちょっとやな感じ」「哀れに思う気持ち」を、物語として語っていくことで、そいういう気持ちとの折り合いをつけようとしたのかもしれません。
昨今少年犯罪の厳罰化を求める声もあるようですが、そう思うと、「妖怪」というのはもっとなんというか、ひとの優しさのようなものを感じませんでしょうか。
夫である八面大王を失い、子息である金太郎は夫のカタキと同じ職業についた後、山姥は現在の長野市中条村の虫倉山で、地元の子どもたちを護る存在になったというのは、なかなか泣かせるお話ではありますね。
ながなが続けてきました、信州の山姥のお話はこれにておしまいとさせていただきます。
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