信濃毎日新聞の報道によると、長野県松本市の豪商酒井家が江戸期から収集を始めた浮世絵の「酒井コレクション」という約10万点をのコレクションがあり、日本浮世絵博物館という財団法人が管理しているらしい。
そして、このほど好事家の間では(?)周知にもすぎる「百物語」の、北斎の指示によって製作されたと思しき版がそのコレクションから発見されたとのことなのだそうである。
ガッコの歴史の授業でも習った記憶があると思うけれども、江戸時代の浮世絵というのは木版画であり、大本の作画者が初版についてはもちろんあれこれと言うだろうけれども、ベストセラーとなって重版となったり地方へ流通されていく過程では、原型から多少ならずとも遠いものとなってしまう必然はあった。それが、「本人の指示によって作成されたもの」と認定されたということはとても貴重なものであることは素人の僕にも想像に難くない。
そしてこれが、小布施の豪族で実際に北斎を自宅に招き入れ、師事し、自らも妖怪画を描いた高井鴻山のスジからではなく、松本から出たというのが非常に興味深い。
上記リンク先には以下のような記述がある。
北斎の作品で幽霊を題材にしたものは多くなく、浮世絵の歴史の中でも幽霊を錦絵で描いた最も初期の作品という。佐藤教授は「絵柄の影響で商業的にはあまり売れず、刷られた枚数も少ないのではないか」と推測している。
僕は浮世絵とか北斎とか興味はあるけどそれこそその道の人ほどは詳しいわけではないので、それは事実なのかもしれないけれども、個人的見解としてはちょっと違う。
江戸末期の庶民文化として黄表紙という大衆雑誌があり、大人から子供まで人気を博したといわれ、そこでのキラーコンテンツは「妖怪」だったと思われるフシがある。それは無知蒙昧な中世人の信仰ではなく、今でいうところの「ポケモン」のように。
そしてこれは子供達の間でブームになっただけでなく、大人の好事家の間でもそれなりに人気があったのではないだろうか。たぶんそれは、いまの世の中でええトシこいたオトナがアニメを観てるのと同じようなノリだったのではないかと僕は思う。
だからこそ、北斎のようなある程度自分で納得できるような業績を残したじじいでも挑戦したくなる題材であり、ワリと頭の固そうな地方の金持ちの文化人である高井鴻山も秀作として描いてみたくなった題材だったのではないだろうか。
むしろ、それぐらい嗜まずになにが粋人であろうかというぐらいのイキオイで。
北斎の辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」だそうである。ひとつ死んだらヒトダマになって夏の野原でもさまよってやろうかてな具合である。これも無知蒙昧な中世の迷信深き人の句では決してなく、シャレのわかるオトナが、死んでも化けて出て楽しんでやろうと言っている、楽しげな句だと思う。
そう、きっとうっかりすると自称霊能者とかの言うことに思わず乗っちゃってお互いにひくにひけないトコロに到達してしまうような現代の我々より、当時の人々の方が、そういった不思議なものは事実ではないものとして、だからといって無碍に否定するのではなく、シャレた付き合いをしていたのだろうと思う。
そんなわけで、件の作品は年内にも一般公開予定とのことなので、非常に楽しみである。
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